今回紹介するのはピアノをこよなく愛する少年の受験エピソードです。
彼は繊細で落ち着いた雰囲気をまとっている一方で、剣道に打ち込み続ける中で培った熱も内に秘めています。
迷いながら進む彼ら親子の歩みの中には、大切な、大切な気づきがあります。
ここぞという場面での父親の活躍に注目してください。
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少年は、新五年生に切替わる時期に中学受験の世界に足を踏み入れました。強く後押ししたのは、みずからも中高一貫生活を楽しんだという彼の母親でした。
塾選びでは大手も回りましたが、本人の意志を尊重して、ある中規模塾に決めたということです。
四年生にして公文の中学課程を終わらせていた彼は、最初から中位クラスでのスタートとなります。
当初は算数などが判らない単元だらけでパニックに陥りましたが、持ち前の記憶力を活かし、ぐんぐん成績を伸ばしていきました。
公文でやらない特殊算などは、市販の参考書を頼りに何度も繰り返し、定着を図ったといいます。
本人の必死の頑張りもあり、塾のクラスはほどなく上位にあがりました。
一方で、上へ行くほどにプレッシャーがキツくなったようです。
「みんな凄くできそう。僕なんか・・・」
授業や模試の前には不安でいっぱいになり、具合が悪くなってしまうほどでした。
順調すぎるように見える彼にも、危うさはありました。
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通い始めて三ヶ月も経つと、塾での生活に慣れてきました。友だちもでき「塾が楽しい」と語るようになったことで母親もようやく安堵できたといいます。
彼は自力で未習単元のキャッチアップに成功しつつありました。塾内テストの偏差値は六十台。早くも十二クラスある中で上から二番目の位置にまで到達します。
スルスルとのし上がっていく息子に母の期待も膨らみます。
「トップのクラスまでもう少し!御三家目指せるじゃん!」
彼女が長男の受験にのめりこむのに時間はかかりませんでした。やがて、模試の結果に一喜一憂する日々の中で母は自分を見失っていきます。
冷静になるよう釘をさす夫には「どうして、そんな他人事でいられるか分からない」と言い返していたほどです。
この当時、彼女は破綻の芽が着々と育っていることに気づいていませんでした。
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事件は、受験勉強の開始から一年あまり経ったころに起こりました。
課題を本人と塾に丸投げにしつつ、期待をかける母のプレッシャーが重かったのかも知れません。受験で大好きな剣道を続けられなくなったことも影響していたのでしょう。
少年がストライキを起こします。
勉強しかない毎日、焦りをぶつけられる日々に、心が悲鳴を上げたのです。こうなっては母の声掛けは逆効果でした。
完全なる学習の放棄。
母子関係は悪化の一途をたどり、ついには「受験やめたい」という言葉が少年の口からこぼれます。
「やはりこの子に受験は無理なのか。高校受験のほうがいいのか」
手詰まりの母がそんな思いをめぐらす中で、父親が動きました。
彼は子どもの中学受験をしぶしぶ了承したものの、それまで妻の熱の入れようを冷ややかにみていたような人物です。
「二人で話そう」
彼は重々しく告げると、子供部屋に入っていきました。
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もともと受験賛成派でない父親と、受験でストレスが限界になった少年の対話。そこで導き出された答えは、意外にも受験を続けるというものでした。
「今はただ、目の前の勉強から逃げ出したいだけではないのか?もし、そんな理由なら、認められない」
父親はそう切り出し、自分自身の高校受験の経験も聞かせました。そのうえで本人がどうしたいのかをじっくり話し合ったのだといいます。
溜まりに溜まった不満を吐き出せたのも良かったのでしょう。今の気持ちを紙に書いておくように言われた少年は、素直にこう記しました。
「あきらめない姿勢でがんばる」
再出発を誓った彼は、それまでとは打って変わって、清々しい表情をしていました。
小六の春、受験が自分ごとになった瞬間でした。
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トラブルをきっかけに、両親の心境にも変化が生まれます。
母親は息子の気持ちを尊重することの大切さを思い知りました。そして父親も、もはや中学受験の傍観者ではありません。
気合を入れ直した少年は、より本腰を入れて課題に取り組むようになりました。
母も心を入れ替え、陰に陽にサポートに徹します。勉強のことでも本人だけで回せない部分については、手助けをする機会が増えました。
塾で習った内容をホワイトボードで説明させる試みなどは、記憶の定着と弱点の克服に役立ちました。
こうして、ギアを上げながら勉強漬けの日々が続きます。
努力の成果は、やがて数字にも表れました。夏休み明けの模試で、手放しで称えたくなるような成績を取れるまでになったのです。
目指す御三家の一角、リベラルで知られるあの名門校にも、手が届きそうに感じられました。
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春から夏にかけての本気の学習。その成果に痺れるような高揚感を味わった後に待っていたのは、まさかの展開でした。
成績の急降下です。
思い当たることはいくつもありました。
鼓笛隊や係の委員長に手を挙げ頑張っていること、塾のない日の放課後に遊び尽くしてくること、ピアノの発表会に向けた特訓にのめり込んでいること、など。
あるいは、あまりに勉強一色だった夏の息切れや、好成績による慢心もあったのかもしれません。
子どもの小学校生活を謳歌したい気持ちを尊重して見守っていた母も、ここにきて焦りだします。
「んん〜っ!緩んできてる。まずいまずい。すぐ何とかしなきゃ!」
一方で、父親の見方は違っていました。
「まだ小六、しかたないよね。本人が第一志望の学校に行きたいという気持ちが足りないわけだから」
ここでも父は落ち着いていました。
「届かないなら志望校を変えればいい。良い学校は他にもいっぱいある」
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あっさり御三家志望を覆された秋。
母親は納得いかず、夫に食い下がります。
「せっかく頑張ってきたのに。個別に通うとか、家庭教師をつけるとかすれば、今からだって」
「そんな必死になってその学校入って、そのあとどうするんだ?そこまでしないと入れない学校なら、もともと無理なんだよ」
夫はあくまで冷静で、そして頑なでした。
ありえない。何のために頑張ってきたのか。母親はみじめな思いのまま、しばらく鬱々と過ごしたといいます。
少しでも良い環境で過ごして欲しい。そのためにこその御三家中。
けれど、良い環境とは何なのか?そこに本当に子どもの幸せはあるのか?
思い悩む中で彼女は、自分自身の中にその答えがないことに気づきます。
そして、子どもの希望を後押ししたいという気持ちとは別の感情にとらわれていたことに思い至りました。
「なんのことはない。私を苦しめていたのは、単なる見栄だったんだ」
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「どんな進学先であれ、道筋は整えてみせる」
母の心は決まりました。
御三家志望から鞍替えして選んだのは、当時の成績に見合った、本人が学校見学でも特に気に入っていた中学でした。
自由な校風のもと、生徒たちが活き活きと闊歩しているのが印象的だった学校です。
それでいて、大半の生徒が名門大学に進んでいるという、実績の面でも申し分のない男子校でした。
新しい志望校は複数回受けられるため、併願校を絞って効率的に過去問対策ができるというメリットもありました。
少年自身「こっちの方が解いてて楽しい」とこぼすほどで、志望校の変更はむしろプラスに働いたようです。
鶴の一声で方針転換へと導いた父は、ここから本腰を入れて動き出します。
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少年の父には確信がありました。
一つは、子どもの伸びしろへの確信。
もう一つは、中学受験でどんな結果になろうと、十分に得られるものはあるという確信です。
もともと、失敗を糧に公立中でがんばったっていいとさえ思っていた彼でしたが、ここにきて考えが変わってきました。
「あいつは行きたい学校のために、いま、ひたすら机に向かっている。俺にできることは何だ。何がしてやれる」
少年の父は、常に志望校の赤本を持ち歩くようになりました。次男とレゴで遊んでいるときでも、赤本を片手に研究を重ねていたほどです。
「もう、塾だけに任せていられない」
塾でやったプリント全てに目を通しました。そして、弱点を見つけては、やるべき問題をノートに貼るという作業を繰り返しました。
こうして、少年が昼間にノートの課題を解き、夜、父が解説を加えるというサイクルが家族の日常に加わりました。
父親として、ここまで教育に熱を入れたのは、初めてのことでした。
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「直前期は、点数が一番上げられそうな分野に集中する」
父親のこんな信条で始めた特訓でしたが、効果はひと月あまりで表れました。
足を引っ張っていた理科の過去問で、合格者平均を越えられるまでになったのです。
父親なりのエールが、少年の意識を変えた部分もあったのでしょう。
最後の模試はA判定。弱点も冬休みにあらかた潰すことができました。
「いい流れだわ。顔つきもほんとの受験生みたい」
見守る母の口角も自然と上がります。
あとは本番で実力を出せれば、何も問題はないはずでした。
そう、実力をうまく出しさえすれば。
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勢いに乗ったまま迎えた受験シーズン。そこで待ち受けていたのは、思わぬ波乱でした。
一月の前受初戦の朝、起き出してきた少年の様子は明らかに普段と違いました。
ソファでぐったりしていて、着替えもままなりません。そして、だるそうにトイレとソファを行ったり来たり。
彼は、極度の緊張からくる吐き気に襲われていたのです。
「もう、乗り越えたと思っていたのに、まさかここでくるとは・・・」
母親は小五のころに、模試で同じようなことがあったのを思い出していました。不調は心理的な要因だと合点した彼女は、募る不安を内に押しとどめて語りかけました。
「とりあえず、外の空気、吸ってみよ?」
うつむく少年の心に届くよう、明るく、優しく、続けました。
「あのときは、まず一歩、家の外に出てみたら、塾まで行けたでしょう?今日も、準備して、とりあえず、駅まで行こう」
たたみかけず、ゆっくりと言葉を重ねます。
「駅まで大丈夫だったら、会場まで行こう」
最も大切なことも、きちんと付け加えます。
「もし、どうしても体調悪かったら、会場まで行って、帰ってこよう。二月一日に向けての、練習だよ」
笑顔に精一杯の気持ちを乗せて勇気づける母が、胸の内の焦りを隠し切れていたのかはわかりません。
それでも、少年は時間をかけて自分を奮い立たせ、なんとか家を出ることができるようになりました。
塾で当日用にもらった課題は手つかずでしたが、それどころではありません。なにしろ、朝食さえ食べられていないのです。
「まさか、こんなことになるなんて。嗚呼、もう、私には、何もしてあげられないんだぁ・・・」
寒空の下、少年の姿が会場の中に見えなくなると、抑えていた涙が堰を切ったようにあふれ出しました。
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波乱の試験当日から二日後。
昂ぶる気持ちを持て余しながら合格発表の画面をクリックした母は、表示された文字に凍りつきました。
「え」
前受校に選んだ中学は、人気を集めつつある郊外の進学校でした。
偏差値帯は第一志望に近い水準ですが、過去問の手応えはよく、少しぐらい崩れても優に合格ラインは越えられると踏んでいた学校です。
けれど、目の前に差し出された現実は厳しいものでした。
「うそでしょー!」
嫌味なほどデカデカと『不合格です』と主張するモニターを前にして、叫ばずにはいられませんでした。
そんな・・・。ちゃんと安全圏の学校を選んだのに・・・。
やっぱり、まさかが起きるのが受験なんだ・・・。
ここが取れないと、第一志望だって危ないかも。いや、かもじゃなくてほんとに危ない。どうしたら・・・。
湧き上がる不安の連鎖が抑えられません。
「あの子になんて言おう」
その日は、息子が学校から戻るまでの時間が、やけに長く感じられました。
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「ただいまー!」
元気に帰宅した少年は、ランドセルを置くのももどかしく「結果はどうだった?」と聞いてきます。
その声は期待に満ちていて、朗報を疑っていないかのようです。
一瞬、言葉に詰まった母の様子に、少年は目を見開きました。
「あ、あぁ、だめだったよ」
静かに告げると、彼の表情がみるみる歪んでいきます。
母も胸を締めつけられる思いでした。それでも、絶対に動揺を見せないと決めていたので、ぐっとこらえ、何でもないことのように言葉をつなぎました。
「今年は、いつも以上に受験者数が多かったから、塾の同じクラスでも、まさかあの子が?っていう子が多かったんだって。初めての経験だから、こんなことはよくあるって、先生も言ってたよ」
そして、ここからは声音に力を込めます。
「今月、もう一回、チャンスある!ここを受けよう。次は、朝ごはんしっかり食べて、全力出せるようにしてのぞもう!」
少年は黙ったまま、コクリとうなづきました。とはいえ、さっきまでの陽気が嘘のようなしょげっぷりです。
ショックのあまり、ゆっくり崩れ落ちるようにソファにもたれかかった彼。
その横顔を、とめどなくしずくが伝っていました。
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一月校でのまさかの事態。
動転し、心が折れそうになる一幕もありましたが、その経験には得がたい側面もありました。
少年みずからが「このままじゃ、本当にヤバイ」と痛感したことで、やる気に火がついたのです。
「大丈夫。できるできるできる」
そう念じながら自らに課したスパートで、次元の違う集中力が発揮されます。
「もう、あんなことはない。できるできるできる」
挫けそうになったあの日、あきらめない姿勢でがんばると決めたから。
気づきもありました。
困難に立ち向かうため、決意を新たにすること。実力を出し切るため、徹底的に集中すること。自分自身と向き合い、モチベーションを高めること。
これらの大切な心構えは、どれもが剣道に打ち込み続ける中で培ってきたものばかりでした。
「できる!できる!できる!」
必死の取り組みが続く中、ほどなく一月校二回目の試験日がやってきました。
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「今日は見違えるようね」
環境を変えるため、あえて祖父母の家に前泊して迎えた当日の朝、少年の様子に母は胸をなでおろしました。
食事、睡眠ともバッチリ。澄んだ瞳に不安の色は感じられません。引き締まった表情の口元には、うっすら笑みすら湛えています。
少年は試合にでも赴くかのような、ほどよい緊張感に包まれたまま会場入りすることができました。
「乗り越えたな~。たった数日でこんなに変われるなんて。今日は大丈夫!」
送り出しの際に母が太鼓判を押した通り、二回目の試験で少年はあっさり合格基準点をクリアすることができました。
弱気に打ち勝った少年の勢いは止まりません。
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「行ってきます!」
笑顔で送り出す祖父母に力強くうなづき、少年は薄明かりの街へ踏み出しました。今日は決戦の日、二月一日。「絶対、ここに行きたい」と願ってやまない第一志望校の試験日です。
湧き上がる高揚は、早朝の冷え込みぐらいではビクともしません。
この日のために母がくれた手紙は、勇気と安らぎを与えてくれました。父とともに作り上げた特別なノートも、大事にリュックにしまってあります。
それらは、形を変えた自分だけの大切なお守りでした。
「大丈夫。今までのがんばりも、経験も、ぼくを強くしてくれる」
大変だった二年間。けれど今は振り返りません。目の前のことだけに集中します。
「ぜんぶ出し切る。今日こそ!」
胸の内にくすぶる、怖れも、不安もあります。
それでも、戦えるだけの強さを身につけていていることを、彼はもう知っています。
「絶対に、できる!」
決意に燃え、ライバルの人波を進む少年。その瞳は、ただ、前だけを見つめていました。
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”親はいつでもどんなときでも応援団でいよう”がモットーの受験ブログ。今は2025年組の弟君エピソードがメインですが、お兄さんの話題もたまに出てきます。
今回は、「そんな必死になってその学校入って、そのあとどうするんだ?」という父親の言葉と、それに続く振る舞いがあまりにも見事だったので、是非にとお願いして記事にさせていただきました。
家族の心情などは、私が想像で補った部分が少なからずあります。特に終盤は創作色が濃くなっている点はご承知おきください。
なお、今は元気に第一志望校に通う件の少年は、大好きな剣道とピアノを続けながら学校生活を謳歌し、再開した公文のおかげで学業の面でもすこぶる充実した日々を送っているということです。
「我が家の中学受験はこれでよかったのです‼︎」(当該ブログの本文より)
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