中学受験と児童書と

「中学受験」と「児童書」について真面目に考え、気楽に吐き出す

【本気レポート】私らしく、いられる場所へ ~或る元サピ女子の再起~

「第一志望を目指す彼を全力で支え、合格を祈っていた頃が一番幸せだった。」
 
喜びを爆発させた合格発表から1年もしないうちに、こう言い残してネットから消えたSNSユーザーがいました。
 
同居親の介護という重いミッションをこなしながらの伴走、大金星。けれど、その先にあったのは思い描いたのとは全く違う、廃人同様になってしまった息子との暮らしでした。
 
「大変だったあの日々は何だったのか?」
 
今ごろ彼女はこう自問しているのかも知れません。 

一方で、つらいつらい日々を乗り越えた先に、たび重なる黒星があっても、いまでは幸せな毎日に感謝しながら暮らしている親子もいます。 
 
その少女の両親は、部活に、勉強に充実した日々を送る娘を見守りながら、進学先の一貫校にこれ以上ないほどの恩義を感じているといいます。

こんなにも健やかで喜ばしい中学受験のエピソードは稀でしょう。 
 
今回は、そんな心境に至るまでに彼らが重ねた試行錯誤の数々を紹介してみたいと思います。
 
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「大変申し上げにくいのですが、退塾の手続きについて相談させてください。」
 
ミドリが面談スペースでこう切り出したのは、夏期講習の日程が半分あまり過ぎた時期のことでした。2年間にもわたりお世話になったSAPIXとの別れ・・。とはいえ、感傷に浸っている暇などありません。
 
何しろ退塾から埼玉入試までに残された時間はたった4ヶ月あまり。東京入試までは約5ヶ月。それまでにどうにかして娘が勝負できる態勢を整える必要に迫られていたからです。
 
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愛衣が最初に通ったのは近所にある日能研でした。小3の夏に「未来をつくる学びテスト」でスカラ生に認定されたのがきっかけです。すぐに校舎の上位に駆け上がった彼女は、小4の秋からはママ友の薦めるSAPIXに移ることになりました

SAPIXではトップ集団のアルファ入りが認められますが、そこは愛衣にとっては異次元の場所でした。授業のスピード、課題の質、ライバルの熱気、すべてに勢いの溢れるその空間は、マイペースな彼女にとってあまりに刺激が強すぎたのでしょう。

転塾当初には60あったSAPIX偏差値は、坂を転げ落ちるように下がり、気づけば40台が当り前になっていました。アルファからは遠ざかり、小5ではいわゆるアルファベットクラスの中位から下位をフラフラとさまよいます。

頑張っても頑張っても上には上がいる。ぜんぜん勝てる気がしない。そんな日々が長く続いたことで、すっかり負けグセがしみついた愛衣は、そのころからどうせ私なんて・・」と口にすることが増えたといいます。

転塾から1年後、小5秋のマンスリーテストのSAPIX偏差値は44になっていました。

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彼女にはどうしても入りたい学校がありました。それは飛ぶ鳥を落とす勢いの名門、広尾学園です。

はじめはユーチューブで、あるクラブの動画にハマったのがきっかけでした。なんとか滑り込めた学校見学では、道を行く生徒たちの姿やきれいな設備にも胸をときめかせているようでした。
 
いつも仕方なしについてきていた他の学校見学とはちがい、このときはやけに上機嫌だったといいます。

「もう、ここしかないし。ねぇねぇ、広尾って何回も受けられるんでしょう?」

目を輝かせる愛衣を前に、ミドリは複雑な心境でした。スマホでチェックすると広尾学園SAPIX偏差値は1回目で56。2回目以降はさらに上がって57から59。

医進コース志望でない愛衣にも受験チャンスは3回あります。しかし、いくら気に入っているとはいえ、とてもそんな無理ばかりはさせられないと思ったのです。

現実的な志望校を定めたいミドリと、何でも挑戦させたらいいという夫、忠司との意見が合わないことも問題を複雑にさせていました。

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目標のある愛衣はSAPIXの課題に必死に取り組みました。しかし学年が進み課題の質が上がり、量も増えていくことで、だんだんこなし切れなくなっていきます。

溜まりに溜まる課題の山を前に、それでも真面目でこだわりの強い彼女は与えられた問題をすべてやろうとしました。算数では、一つの問題に1時間かけるようなこともたびたびあったといいます

明らかに効率が悪い。SAPIXの課題もスピードも合ってない。

そう確信したミドリは「転塾してみたら?」と持ちかけますが、愛衣は「絶対、嫌!」と耳を貸そうともしません。いい先生が大勢いて楽しいから離れたくないというのです。みんな優しくて、教えるのが上手だと言われては、ミドリも黙るしかありませんでした。

愛衣本人の口からは何も語られませんでしたが、彼女は高学年になってから小学校で孤立する場面が増えていたようです。
 
おせっかいママがさも心配そうに「大丈夫なの~?」と伝えてきたときには、思わず知っている風を装いましたが、ミドリには寝耳に水の話でした。

鬼気迫る愛衣の勉強には。そんな学校での様子も影響していたのかもしれません。

「私はみんなより、もっともっと素敵な場所に行く。絶対、広尾学園に受かる。」

机に向かう愛衣の背中からは、そんな激しい感情があふれ出ているようでした。

季節は春。小6マンスリーテストのSAPIX偏差値は43になっていました

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「わたし、無理かも。」

塾から帰宅するなり、ただいまも言わずに愛衣が放った一言にミドリは絶句しました。娘のただならぬ様子に、どうしたの?とも言えないまま見つめ返すと、愛衣がポツリ、ポツリと語りだしました。

珍しく手ごたえがあった模試の結果が振るわなかったこと。広尾学園の合格可能性が20%だったこと。
 
渡された成績表には偏差値41という数字。併願予定の三田国際栄東も厳しい評価です。

この瞬間、ミドリは退職して愛衣の受験に寄り添うことを真剣に考え始めたといいます

「今の努力は間違ってる。私が導かないと。」

その後もこなし切れない課題に埋もれる日々は変わらず、成績が上がる兆しもみられませんでした。そんな中、もう通塾をやめるという点では夫婦の意見が一致します。
 
ミドリの長年勤めた会社をやめる決意も固まりました。

「夏期講習終わったら退塾するけど、いいね?」

今度は本人も頷きました。

こうして、9月以降の母と娘による自宅学習が決まります。今の愛衣にピッタリな塾が見当たらなかったので、こうする他はありませんでした。
 
好都合だったのは、忠司の勤め先が原則テレワークになったことでした。一家一丸となって娘の目標をサポートする体制が整ったのです。

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最初に取り掛かったのは小4までさかのぼっての学び直しでした。とくに算数・理科はSAPIX偏差値で40に届かないことが多く、弱点だらけのため補強に手間取りました。

逆に国語はまずまずの点数を取れ、社会はSAPIXのおかげで得意だったこともあり、学習時間はもっぱら理系科目の強化に使われました。

みんなが過去問や実践演習をしているときに基礎のやり直しをすることには抵抗もありました。愛衣も「本当にこんなのでいいの?」と訊いてきますが、そこは「大丈夫。信じて。」とピシャリと黙らせます。

基礎という土台がないことには本番で得点できるわけがないここは腹をくくりました。

9月から10月は模試を受けないことも決めました。愛衣には「基礎が出来るまでは余計なことはしなくていいの。」と言い含めていましたが、実のところ娘のショックを受けた姿が目に焼き付いていたこともありました。

「もう、あんな顔はさせない。」
 
そう誓ってミドリはひたすら基礎の反復に伴走します。

もともと愛衣のやる気は十分すぎるほどなので、本人に合わせた易しい課題はスポンジが水を吸うように吸収されていきました以前なら時間がかかったはずの課題も、発達段階が追いついてきたのか、スムーズにできることが増えます。

11月になり、四谷大塚の合不合判定模試を受けてみると4科で55という結果がでました。各志望校の判定は厳しいままでしたが、少し明るさが見えてきました。

「いけるよ、この調子。」
 
画面に表示された結果データを差して言うミドリに、愛衣は「でも、判定が・・」とつぶやきながらも嬉しさをかみしめています。思えば、平均以上の数字を見るのは本当に久しぶりのことでした。

ここではミドリはSAPIX偏差値とは違うというような、余計なことは口にしませんでした。

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12月になり、過去問を始めると再び愛衣が不安定になります社会でたっぷり稼いでも算・理が足を引っ張り、合格最低点まで遠すぎると実感させられたからです。

「やっぱ無理。わたしなんて、もう、どこも受からないよ!」

ソファーに顔をうずめる娘に、ミドリはかける言葉が見つかりませんでした。

最後の合不合判定模試は4科で55と先月と変わらず。広尾学園61)はもとより、三田国際(59)や栄東(60)にもまだまだ足りません。

そこで、ミドリは過去問はいったん封印して、少しづつレベルを上げながらひたすら基礎を回していくという方針に戻ります。算・理は忠司の手にも余るようになってきたので、TOMASの個別指導を週4コマ入れて補強することにしました。

こうしてマイペースな娘に合わせた手探りの中学受験は大詰めを迎えます。
 

受験スケジュール(聞き取りできた範囲で作成しています)
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いよいよ入試本番の時期になりました。

初戦は1/10の栄東(A日程)。いま勢いに乗っている進学校です。出題傾向はクセのない良問が中心なので、応用が手薄な愛衣でも届くかもしれないと目論んでいた学校でした
 
2月のチャレンジのためにも、ここはおさえたいところです。

愛衣は入試の直前に解いた過去問では苦手だった算数で平均点に届き、4科でも合格ラインを超えるまでになっていました。

「ラストスパートの成果が出てる。いけるよ!期待は高まります

しかし本番には魔物が棲んでいました。

受験当日、青ざめた顔で会場から出てきた愛衣は「算数が、算数が」と早口で洩らしました。訊けば、算数で序盤の問題に引っ掛かり、時間をかけすぎてしまったのだといいます。

ペース配分は基礎の基礎。家でも訓練はしてきましたが、やはり練習不足が祟ったようです。本番の緊張感にあてられてしまった面もあるのでしょう。

2日後に不合格がわかると、ミドリはただちに1/16の栄東B日程)に向け学習スケジュールを組み直します。2回目の受験生には大きな加点がありますが、実際には敗者復活狙いで受ける子が多いので、合格ラインとされる偏差値はA日程とそう違いません。

当初、理科の底上げに使う予定だった学習時間を算数のペース配分の特訓に振り替えて、愛衣には「加点があるんだから大丈夫。恐れることなんてない。大丈夫だから。」と言い含めます。

それはまるで、何としてもここを取って欲しいと願うミドリが、自分自身に言い聞かせているようでもありました。

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準備の甲斐もあり栄東のB日程は波乱なく終わります。

「出来たかも。社会は満点だよ。たぶん。」という愛衣の言葉通り、翌日には合格が判明しました。結果開示でしっかり力が出せていたことがわかり、ミドリも胸をなでおろします。

魅力ある進学先が確保できたことは、大きな安心につながりました。本番に弱いわけではなく、落ち着いて受けられれば勝負できることがわかったのも収穫でした

とはいえ、これでチャレンジ路線が確定した東京入試に向けては、もう一段レベルアップを図っていく必要があります。

昼夜に及ぶ本気の家庭学習とTOMASでの直前特講が続く中、待ったなしで入試日が迫ってきました。

2/1午前 広尾学園、午後 広尾学園、2/2 三田国際、2/4 三田国際、怒涛のように慌ただしい時間が流れ、そして、残念ながらその後には黒星の山が築かれていきます。

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2/1は午前の試験を終えた愛衣の顔色があまりにも悪いので、午後をキャンセルさせるか迷います。けれどもやれるからと繰り返す娘の本命チャレンジを減らすわけにいかず、再び会場に向かわせました。

帰りの様子もただごとではなかったので、その日は「どうだった?って愛衣に聞かないで!」と忠司にLINEで釘を刺して帰宅。家にたどり着くと愛衣は倒れるように眠り落ちました。

移動がないぶん楽だなどと軽く考えていた本命校の連戦ダメージは甚大なものでした。

2/2の朝は前日の疲労が抜けきらず、普段なら学校を休ませるような状態でしたが、昼前に少し落ち着いてきたので、午後の三田国際に向かわせます。この日のうちに前日の広尾学園がどちらもだめだったことが判明しました。

2/3には前日に受けた三田国際の悲報を受け、あまりにも愛衣がふさぎ込んでいたので、忠司がうっかり「なぁ、もうやめにしないか?」と口走ってしまいます。
 
愛衣がふるえる声で「なんで、ダメだって決めるの?」と言うのを聞いたミドリは、思わず娘を抱きすくめたといいます。
 
「大丈夫だよ。一緒に、行くから。どこへでも行くから。」

つらくても最後まで闘い抜くと決まった瞬間でした。

2/5は広尾学園3回目、愛衣の中学受験はこれが最終日です。晴れわたる空のもと、試験を終えた彼女は吹っ切れたように清々しい表情で会場から出てきました。

「算数も、理科も、やれたと思う。うん、やり切ったよ。社会の最後が面白くって」

試験後はいつも口数の少なかった愛衣が、この日はやけに饒舌でした。充実した彼女の横顔からは、勝負を楽しみ抜いたあとの解放感が漂っているように感じられました。

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力を出し切れた感触はあったものの、愛衣が憧れ続けた名門校の壁は高いものでした。とはいえ、一方で彼女は5名しか募集枠のない2/4の三田国際に受かるという快挙を成し遂げてもいました。

終わってみれば3校(7回)を受験して2勝5敗という結果ですが、チャレンジ校ばかりだった夏の状態から考えれば、進学先を選べる状態にまで持って行けたというのは凄いことでしょう

全ての入試日程を走り切った愛衣は、最終的に自分自身で進学先の中学校を決めました。

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中学生になった愛衣は、いま、好きな部活に入り、勉強にも余念がない日々を送っています。
 
友人にも恵まれ、目を輝かせて学校での出来事を語る幸せで充実した毎日。それはかつて学校の人間関係でつらい思いをしてきた彼女が心から待ち望んだ居場所のようでした

自分のペースで頑張れるその一貫校は、愛衣の能力を伸ばすのにも合っていたようです。今では中間・期末だけでなく学校で実施する外部模試でも、トップクラスの評価を得られるまでになりました。

それでも愛衣は驕ったりしません。SAPIX生活が長かった彼女は、分厚い岩盤のような上位層がいることを知っています。たくさんの苦杯をなめた彼女は、下位層が抱く憂いを知っています。

長い目で見ればひとつの通過点に過ぎない中学受験ですが、いいことも悪いことも含め、すべてが得がたい経験でした。その経験を糧にして、彼女はいま力強い足取りで、自分らしく歩みを進めています。
 
※ 登場人物の心情には、私の想像で補っている部分があります。
※ 具体的な学校名を使うにあたり、身バレ防止フェイクを織り交ぜています。
 
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父・忠司のコメント
 
あの広尾熱はなんだったんだろうってぐらい今の学校になじんでますね。娘は。なぜか文化系のクラブに入ってますし。私には何も言いませんけど楽しくやれてるようですよ。顔つきからして違ってますから。
 
環境って、本当に大事なんですね。つくづく思います。
 
今の中学は、いきなり机の上に乗って踊り出す男子がいても誰もバカにしたりしないんだそうです。マイペースな娘が自分らしく輝ける懐の広さ。いい意味でのゆるさ。安心感。
 
もうね、感謝しかないですよ。あの学校には。
 
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